斎王兄妹掌編集 異形の詩篇

第五幕、罪と云ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を。(パラレル・年齢指定作品)

白痴の愛


 ――お前の妹はもう死んでいる、告げられた言葉の理解を拒むように私は頭を振った。
「何を馬鹿なことを。妹は生きて、今も庭を散歩しています」
「……お前も本当は気づいているはずだ、その妹の変化くらいは」
 海馬コーポレーションの副社長だという青年は、幼子に言い聞かせるように話を続けた。
「お前の妹、美寿知は魂をデジタル化し、バーチャル空間を通してソーラに入り込み世界が焼かれるのを止めた……だがそれは無謀だったんだ」
 無意識に両手を握りしめる。かつて私がこの世に齎そうとした破滅の象徴、軍事衛星ソーラ。あの時、美寿知の身に何が起きたというのか。
「人間の魂なんて繊細なものを電子化して、その上バーチャル空間の保護からも抜け出し、ソーラの爆発に巻き込まれた美寿知のデータは酷く損傷していた。とても帰ってこられる状態じゃなかった」
 ひゅう、と息が漏れる。衛星回線に転がる妹の残骸の姿が脳裏によぎった、惨たらしい空想に寒気がし、また頭を振る。青年は呆れたようにため息をついた。
「それでも帰すと約束したんでね、残ったデータとバックアップから人格を復元した……それも到底完全じゃないが、喋って動く程度には繕うことができた」
「……今の美寿知は、復元された人格だと?」
「そうだ、お前の妹は死んだ。それを何より悔やんで心に刻んで、今度こそ大切にしてやれ……オレからの話は以上だ」
 青年が部屋を後にする、その背中を呆然と見送ることしかできない。暫しの放心の後、私はのろのろと立ち上がり施設の庭へと向かった。

 にいさん、そう呼ぶ声がする。記憶の中の美寿知よりもあどけない、その成熟した身体に似つかわしくない声色。
「うみがきれいね、にいさん」
 そうだ、本当は分かっていたのだ。今の美寿知がかつての彼女と違う人格だということに。太陽を背に受け微笑む妹に裁きの女神を見出し、膝をつき赦しを請う。
「すまない……すまない、美寿知。守ってやると、決して独りにしないと約束したのに」
「いいのよ、にいさん。きっとむかしのわたしも、おなじきもちだわ」
 ゆるしてあげる、そう言って美寿知は私を抱きしめた……波の音、妹の温もりと柔らかな闇だけが世界になり私の眼を閉ざす。暗がりの中、遠い空に消えた妹を想う。償うことの叶わぬ罪、私に与えられた何よりの罰だと思えば自嘲の笑みが零れた。

 ――白痴の妹を抱き、その赦しに縋る。愛しているという言葉だけが、抜けるような青空に虚しく響いた。

はめつのねがい

 ――また、星が一つ瞬いた。

 古くから人々は遠い塵の燃え尽きるさまに願いを託す、私なら何を託すだろう。
 やはり兄の幸せだろうか、だがそれは本当にこの世界で叶う願いなのだろうか?……もし叶わないのなら、この星も燃え尽きてしまえばいい。灰の海になった世界で兄と二人、昔のように彷徨うのも存外悪くない。半ば投げやりに、そんなことを思った。

 僅かな物音に、視線を向かい合って座る男の方に戻せば仰々しく手の甲への口づけを施される、情事の誘いだ。それを合図に席を立ち男の隣に侍れば腰に手を回される。純潔を表す自分の装束をまじまじと見て男は嗤った。
「身体を売るのにそんな恰好とはね」
「お嫌いですか」
「まさか、興奮するよ」
 とうに心の痛みなど摩耗している、この身体一つで抱きこめるのなら幾らでも差し出そう。兄の破滅を退ける救いを見つけるには今の養父から独立し、海を渡るための金とコネクションが何としても必要なのだから。男は顧客の中でも有力な支援者の一人だった。
 犬に餌をくれてやるようなものだと思う内心を取り繕い微笑めば、男は下卑た笑みで応じた。

 この壁を一枚隔てた向こうで、最愛の妹が犯されている。
 寝台の上に蹲り頭を掻き毟る、臓腑を灼く憎悪と自己嫌悪に気が狂いそうだった。いや、もう狂っているのかもしれない。初めはまだ妹に向けられる欲望の身代わりになれたのだ。凌辱に軋みを上げる精神も妹を護っているという自意識が支えてくれた。けれど齢を重ね成長した私は次第に客から求められなくなり、獣たちの視線は一斉に妹へと注がれた。
 妹は美しかった。清廉な空気を纏い、強い意思を宿した瞳には穢れなど一つもない。例え、幾度犯されようと。そんな妹に欲望を傾けたのは客ばかりではない、仮にも私たちを保護する立場であったはずの養父をも獣欲を剝き出しにした。
「化け物が化け物を産んでは困るだろう?」
 養父はそう嗤って妹から未来へ続く道を残酷に奪った。余りにも悍ましい所業に打ち震え、嘔吐が止まらなかった。妹にとってその傷はどれほど深く、痛ましいものだっただろうか!
 けれど、最愛の肉親を切り刻まれその身を売らねば破滅から逃れられぬ現実に耐えられなくなった私が、何もかも捨ててまた逃げ出そうかと言った時も妹は気丈だった。
「兄さんのためなら、何を差し出そうと構いません」
 どうして私たちばかりがこのような苦痛に苛まれねばならないのだろうか?普通の兄妹であれば親の愛情を一身に受けて平穏に暮らしているだろうに。バランスを欠いた世界に生まれ落ちた私たちはただ翻弄され、人々の欲望に食い荒らされるのみ……精神の限界は近かった。

 兄さん、と僅かに情事の熱を残し掠れた声で呼ばれる。ああ、妹が帰って来たのだ。朝焼けに照らされる妹の身体は、やはり清浄で美しかった。寝台に乗る妹を迎え入れ、そのまま抱き寄せる。こうしていれば酷く満たされるのだ、罪の意識も世界への恨みも少しだけ遠くに追いやることが出来た。
 この狂った世界で虐げられる私たちが互いの傷を舐めあい、癒すことが何故罪になるだろう。
 そう、だから、これから始まる行為も背徳などではないのだ。兄さん、と恥じらいを溶かしたか細い声を食むように妹に口づける。戯れのようなそれを繰り返しつつ衣服を脱げばおずおずと妹の手が情欲の源に伸ばされる。兄の欲へ健気に奉仕する妹を労い、その首筋、胸元、そして頂へと口づけを続けた。妹から漏れる吐息に明確な性の色が乗ったのを見計らい、秘所に指を這わせばびくりと身体が跳ねるのが愛おしい。指の先はしとどに濡れそぼっていた。
「兄さん……もう、大丈夫だから……」
「うん……私もいいよ、美寿知」
 私の言葉に応じるようにゆっくりと私の上に乗り上げ妹は自ら腰を下ろしてゆく、先ほどまで犯されていたその身体は容易く新たな欲望を受け入れた。いわゆる対面座位と呼ばれる体位で繋がった私たちは、やっと一つになれた安堵とじわりと脳を灼く快楽に大きく息をついた。

 この歪んだ関係が始まったのはいつからだったのか、もう遠い昔のことのように感じる。それまでは誰の手にも触れさせまいと死に物狂いで護ってきた。けれどその決意も破滅の運命を見通し、逃れるために妹を売ったことで壊れてしまった。そして、これから下らぬ獣どもに穢されるのならと衝動のままに妹を抱いた。
 美しい妹は全てを受け入れ私を許した。そうだ、私は妹に群がる獣どもではない、ただ一人許された人間だ。傲慢な意識はこの行為を妹のためだと自己正当化した。当然拒絶する心もあった、こんなことは背徳だと叫ぶ理性に苦しみもした。だが世界に募る憎悪と魂の片割れである妹と繋がり交じり合う快楽がそれらを溶かしてしまった。
 化け物め、そう嗤う声がする。うるさい、うるさい!私たちを救ってくれないくせに、私たちを踏みにじり貪る畜生どもめ、お前たちこそが本当の化け物だ。

 律動のたびに蕩けた嬌声が耳元で零れる。兄さん、兄さんと途切れ途切れに私を呼ぶ妹に応え、より深く繋がろうとその腰を掴み強く突き上げた。妹の奥を濡らす獣どもの精に苛立ち、掻き出すように動けば嗚咽にも似た甘い声が響き一層欲望を煽り立てる。
 最愛の妹と溶け合う幸福に浸り、最愛の妹を犯す罪深さに酩酊する。脳を痺れさせる酔いの中でならほんの一時、全てがどうでもよいと思えた。この世で本当の人間は私と妹だけ、片割れと一つに戻ろうとするのは自然なことだ。深く緩やかな抽挿に、もう結合部の境も分からなくなっていた。このまま溶けきってしまえばいい、叶わない願いだと分かっていながらどこまでも堕ちることを望んでしまう。
「兄さん……兄さん、傍に居て……もっと、傍に……」
「ああ……美寿知。ずっと、ずっと一緒だ」
 限界を迎えた欲望を妹の奥底に捩じりこみ、精の迸りを叩きつける。同時に頂点へ達した妹は一際甘く啼き、その身を震わせた。一度の交わりでは離れがたく、そのまま次を求めれば妹はこの上なく幸せそうな笑みで応じる。泥濘のような情事は妹の体力が尽きるまで繰り返された。
 最低限の身繕いだけを済ませ、共に寝台で横になる。穏やかに眠る妹の顔は性の匂いなど全く知らぬように清らかだった。愛しい妹よ、呪わしい運命を共に背負う囚人、ただ一人の片割れ。誰にも私たちを引き裂けない、お前だけは決して手放したりするものか。
 窓を見やれば星々がまだ天に輝いていた。古くから人間たちは遠い塵の燃え尽きるさまに欲望を託す、自分なら何を託すだろう。自分たちの幸せか、それとも疎ましいこの世への復讐か。そう、私たちを救わない不完全な世界などいっそ燃え尽きてしまえばいいのだ、灰の海で妹と二人ならきっと漸く自分も眠りにつくことが出来るだろう。
 日の光の下、破滅に怯え眠れぬ日々に終末を夢想する。どこまでも白く、完成された宇宙の夢を。

 ――また、星が一つ瞬いた。

ヴィーナスの花籠

 ――思い出すのはいつだって古い冬空の記憶だ。

 人の未来を見通す力を疎まれ、物心ついた時には人の営みから弾きだされていた私たちはずっと暗闇を彷徨っていた。普通の子供が享受するような温もりも与えられず迫害から逃れ、二人きりで始めた逃避行は随分と長かったように感じる。野に生きる番の獣が自然と睦み合うように寄り添い、時にはそっと息を潜めて人の目をやり過ごした。二人であれば飢えも孤独も乗り越えられたのだ。兄が居なければ私はとうに生きることを放棄していたかもしれない。
 闇の底では互いの存在だけが生きる理由であり、息をしている証明だった。
 だが結局のところ子供だけでは世界の果てになど逃げることも出来ず、私たちは引き戻され逃げた代償で更に深い傷を負うことになる。人々から与えられた陵辱と苦痛によって兄には消えぬ憎悪と哀しみが刻まれ、私からは何か大切なものが欠け落ちた。
 幾年を経て私たちは他者を利用し、或いは利用されることで生きる術を学び大人になるまで生きながらえた。兄の未来に待ち受けるのが破滅だと知った時、私は全てを賭けて救うと私自身に誓った。例え兄の運命に選ばれることが無かったとしても、何を犠牲にしてでも。人々に恐れられ、化け物と罵られようがそんなことはもうどうでもよかった。兄が生きていてくれさえすれば、私にとって世界の滅びも兄の破滅に比べれば取るに足らないものだった。
 そうして破滅の光を退け世界が救われたあの日、心優しい者たちは私に感謝し受け入れてくれたが……私には到底、その資格はなかった。私はただ兄を救うものになりたくて、兄に選ばれたかった。それが叶わないからあの道を選んだだけだったのだから。
 思えば初めから私はずっと兄に縋っていたのだ、それは今も変わらない。幾ら自らを強くあれと糊塗しても鏡に映る姿はあの冬に閉じ込められた、襤褸切れを纏う痩せこけた子供でしかない。
 ――だからこそ、己は堕ちるべきところに堕ちたのだろう。

 純潔など遠い昔に引き裂かれていた。絶え間なく叩きつけられる快楽が思考を鈍化させ、意識を溶かしてゆく。互いに傷を舐めあうような口づけは、何も知らぬ子供の頃から散々交わしたものだった。幼く脆弱な二つの生命が凍える夜に耐えるためには、互いの体温を擦り合わせるより他にはなかったのだから。あの頃と違うのは成熟した身体を揺さぶられるたびに響く、粘膜が擦れあう濡れた音や己の口から漏れる嬌声、明確な性の匂い。
 これも破壊衝動なのだと兄は言う。その言葉通り、兄との情交はいつも優しさとは程遠いものだった。組み敷かれ、奪われ、強固な力で喰らわれる、私の知る優しい兄ならば決してこんなことはしないだろう。きっと指一つ触れはしまい、このような行為は私たちの傷をまざまざと思い起こすものなのだから。だがそれも今の私にとってはもうどうだっていい、兄に抱かれている。それだけが認識すべき全てだった。
 白い月明かりが照らす室内で、私たちは少しも離れがたいとばかりにぴたりと身体を重ねていた。煌々と照る月の光は兄を酷く高揚させるものらしい。今夜の交わりは一層長く、深かった。常よりも時間をかけて慣らされた身体は貪欲に快楽を呑みこみ、容易く恥じらいを忘れ去った。内壁を抉られるたび反射的に跳ねる腰を力づくで押さえつけ、情欲をさらに奥へ捩じりこむ。
 言葉らしい言葉もなく一方的に痛めつけるような情交の姿は、殆ど獣と変わりなかっただろう。けれど静まり返った闇の中で肌を重ねているとこの世に二人だけのような気がして、ほの昏い喜びが胸に溢れた。最愛の兄に求められているという幸福を貪り、背徳であるという罪悪感すら抱かずに悦楽に耽った。多幸感のままに先を求めればそれに応じるように深い口づけで呼吸を奪われながら奥底を強く穿たれ、熱を注がれる。とぷりと兄の精が胎内を廻るさまを思い描きながら、私は意識の水底に沈んだ。
 混濁した意識の中で兄と溶け合う夢を見る。決して叶うことのない歪んだ真珠の夢を。

 目を覚ますとまだ一糸纏わぬ姿のままだった。身体のあちこちに残る新しい痣や噛み跡が情交の熱を思い出し、僅かに疼いた。そのままぼんやりとした意識で背を起こし胎を撫でる――ここに、今も兄の断片が揺蕩っている。
 満ち足りた気持ちで顔を上げると、兄がいた。しっかりと元の服を着こんで何やら立ち尽くしている。……一瞬の空白の後。兄の表情は青ざめ、強張った口元を押さえ蹲った。びちゃびちゃとした酷い音で兄が嘔吐したのだと分かる。
「兄さん」
 寝台から降り傍へ駆けよれば、一層酷く青ざめた顔でこちらを見上げる兄と視線が交わる。悲愴な兄の様子に、とっくに鈍麻した人としての痛みがちらりと顔を覗かせたがすぐに失せてしまった。
「美寿知、私はっ……私は、何ということを」
「……正気に戻ったのですね」
 兄は背徳を知らぬ人ではない、私のような人でなしでもない、だからこうなることは分かっていた。全ては再びこの世に舞い戻り、兄に宿った破滅の光が齎したもの。全ては繰り返す泡沫の夢だ。狂った行為のたびに自らの所業に慄き嗚咽する兄を宥め、眠りにつかせるのも既に幾度となく行われたことだった。
「私のせいだ。私の弱さが、醜い欲望があの光を呼び込んだ。全て私の……」
「兄さん、落ち着いて。私は大丈夫ですから」
 優しい兄に刻まれた新しい傷の深さを確かめるように、その背をさすりながら穏やかに声をかける。
「これは私の望み。私は兄さんの傍に居られるだけでいいのです、兄さんが苦しむことはありません」
「……違う、違う!お前は破滅の光に操られているだけだ、そうでなければこんな悍ましいことをお前が」
「ふふ、あははっ……」
 突然笑い声をあげた私に兄は驚いているようだった、だが本当に可笑しくて仕方がない。そんな悍ましいことを本心から望んで私は貴方に身体を差し出しているのだから、最も罪深いのは私だ。
「兄さん、兄さんは本当に優しい人……」
「……美寿知……?」
「私は確かに破滅の光に侵された。世界の破滅に加担しているのも兄と肌を重ねたのも私の意思ではない」
「そうだ、その通りだ……お前だけは違う、違うんだ」
「本当に?」
 くすくすと笑いながら兄を腕の中に収め、幼き日に兄がそうしてくれたように抱きしめる。私よりも冷たい体温が、私のことを綺麗な宝物のように扱うその態度がまるで昔と変わらず、私はまた可笑しくなった。
 身体を寄り添わせ、小さな揺り籠のようになった私たちを白い月だけが見ている。本当はどれほど寄り添いあっても、私たちの心はまるで通い合っていなかったのかもしれない。だとしたらなんと滑稽な話だろうか。けれど、この世の誰に強い絆と呪いの区別ができよう。闇の底で固く結ばれた鎖を断ち切ることなど誰にも出来はしない、例え他ならぬ兄であっても。
「兄さん、私は兄さんの望みなら何だって叶えてあげたい。それが本当の望みなら、世界の破滅だとしても」
「美寿知、お前は……」
「……兄さんの言う通り、破滅の光に呑まれ私は狂っているのでしょうね。だからかしら、これが私の正しい在り方だったとも思っているの」
 かつて戯れに兄を虐げた者たちをカードに閉じ込め復讐した時も力なき人間たちを弄んだ時も、私の中には昏い喜びだけがあった。元より兄以外の人間に心開いたこともなく、私の人間らしさと呼べるものは全て兄から学び、兄にだけ向けられるものだった。破滅の光に侵されても兄のように心が裂けてしまわなかったのは何ということも無い、初めから私が化け物と呼ばれるに相応しい人でなしだったからだろう。
 以前のように優しい兄のために世界の破滅を止めるか、それとも悪魔となった兄に従い破滅を見届けるか、今の私は後者を選んだ……私は知っていた。予知の力を失った兄が焦燥と喪失の苦悩に灼かれていたことを、その心の空白を私では埋めようがないことを。故にもう一度あの光が兄を、そして私を侵した時に思ってしまった。破滅の道を選べば最期まで兄に寄り添えるのではと、光は私を肯定した。
 破滅の光を退け私たちを救ってくれた勇気ある彼らなら、兄に違う道を示せたのかもしれない。私では届かない暖かな陽だまりに兄を連れてゆけたのだろう、私には叶えられない願いだ……私には分かっていた。分かっていたのだ、二人きりではこの世の罪から解放されるその時まで、暗闇を彷徨うしかないことを。
 或いは、私にもあったのだろうか。誰かの手を取り、ともに陽だまりを歩む未来が。とうに手遅れとなった世界ではもう知る術も無いのだけれど。
「ごめんなさい兄さん、私は兄さんを救いたかった。それだけだったの」
 冬空は深海に似ている。深い水底、暗く閉ざされた花籠の中で生涯を終える二つの生命は幸福なのだろうか。絶望から目を見開き涙を零す兄の顔に両の手を添え、そっと唇を落とす。終末に交わす口づけは血の味がした。
「どうか、許して」

 ――胎の中では兄とも私ともつかぬ薄汚れた子供が、まだ声もなく泣いている。

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