斎王兄妹掌編集 異形の詩篇

第四幕、主をほめたたえよ。わが魂よ、主をほめたたえよ。(本編後)

欲望の揺籠

 ――水底に沈む揺籠は、願いだけを孕んでいる。

 あの化け物たちが海馬コーポレーションの手から離れると知ったのは一週間ほど前のことだった。
 数年前、突如消息を絶った奴らのせいで私の会社は大きな損害を受けた。未来を予知する力、何とも胡乱なものだが化け物たちのそれは本物だった。大枚を叩いてまで奴らの元に足繫く通ったのもその力があってこそのものだ。しかし奴らの予知を頼りにしていた経営は、その失踪によってあっさりと瓦解した。
 失ったものは取り返さなければいけない。故に、方々に潜ませた部下の報告で化け物たちが海馬コーポレーションの管理下に置かれていると知った時には絶望したものだ。しかし、近く奴らが海馬コーポレーションから別の権力者に引き渡されるようだと聞き、自分にもまだ幸運は残っていると歓喜した。
 海馬コーポレーションの手から離れた瞬間を狙い奴らを捕まえる、それが私の出した結論だった。そして狙うなら妹がいい、兄は予知の力を失ったと聞くし女の方が使い出がある。捕まえてさえしまえば後はどうにでもなる、言うことを聞かせる手段など幾らでも用意できるのだから。あれは容貌の美しい女だった、裏切りの代償を身体に教え込んでやるのもいいだろう。
 膨れ上がった欲望が満たされる瞬間を思えば、手間を惜しむ気持ちは湧かなかった。化け物を捕らえる罠を用意しその時を待つ。

 女の居所を突き止め、その移動ルートに部下を配置する。向こうに察知される可能性は考えたが当の朝まで妙な動きは見られなかった、見過ごしたのか諦めたのか、何れにせよこちらは仕掛けるのみだ。最も有力なポイントで罠にかかるその時を待った。路地裏の暗がりから見つめる人通りの少ない通路、そこを獲物が横切る。合図をすれば屈強な部下たちが飛び出てその身を闇に引きこみ拘束した。
 大きく揺れる艶やかな黒髪、押さえつけられる肢体、だが整った顔立ちには苦痛の色一つ無く――化け物は悠然と微笑んだ。
 煌々と光を放つ紫の瞳、鈴を転がすような笑い声に竦んでいると悲鳴が上がる。先ほどまでそこにいた筈の部下たちは瞬く間に光の粒子になり、消えてしまった。目の前で人間が消える悍ましい光景に思わず腰を抜かし地面に転がる。こちらを見下ろす影は本物の化け物だ、手に入れようなどと考えたこと自体が過ちだった。恐怖でガチガチと歯が鳴る。
「残念だったな、お前は私が欲しかったのだろう?」
 ゆらり、と化け物が近づいてくる。やめろ、来るな、譫言のように拒絶の言葉を繰り返すもその足は止まらない。
「それほど私の力が欲しいのなら分け与えてやろう、お前に耐えられるとは思わぬがな……」
 青白い腕が伸びてくる。その指先が私を捉えた一瞬で全ての感覚器官がぐしゃりと潰れ、意識は奈落の底へと堕ちていった。

 御鏡の封印を解けば目の前には三人の男が転がる。然したる感情もなく、身だしなみを整え通路に戻れば定刻通り迎えが来た。
「美寿知くん、ふむ……どうやら災難に遭ったようだね」
 その連中はこちらで片付けておこう、そう言ってくれるのは影丸会長だ。海馬コーポレーションから私たち兄妹の身柄を引き取ってくれた新しい庇護者。
「すみません、直接来てくださったのに迷惑までおかけして……」
「何、君のせいではないのだから気にしなくていい。ともかく行こうか」
 影丸会長とその供の者に付き従い通路を抜ける。どこまでも透き通る青空はこれからの道行を祝福しているようだった。
 そう、これからはまた兄妹一緒に暮らせるのだ。海馬コーポレーションに恩はあったが兄と離れ離れにされる生活は苦痛でしかなく、影丸会長からの後見人の申し出はまさに救いだった。脅威は去り、もう私たちを引き裂ける者などいない。兄さんを煩わせるものがあっても全て私が摘み取ってしまえばいい。そうしてずっと穏やかに、幸せに過ごす時を想えば自然と口角が上がる。
「影丸会長、私たちを救ってくださり本当にありがとうございます」
「礼を言われるほどでもないよ。私にとっては権力も財も、既に持て余したもの」
 それで君たちが救われるのなら、そう続いた言葉には少し窘めるような響きが乗っていた。まだ兄さんと合流もしてないのに少々浮つき過ぎただろうか?けれど高鳴る胸は中々収まらない。新居に移る前に兄さんとお祝いのケーキでも買おうかしら、なんて子供じみた…いや、子供の頃には頭にも浮かばなかった考えまでよぎる。酷く満たされた心地で、兄さんの元へと向かった。

 私たちはこれからも罪を背負って生きる、踏みしめてきた命に許される日は二度と来ない。だが、例え暖かな陽だまりに居れずとも薄暗がりの安らぎがある。何よりも強く、深く、分かつことの無い血の絆が私たちを繋いでいる。兄と妹、寄り添い生きてゆければ何も恐れるものはない。
 そうでしょう?兄さん、固く閉ざされた血肉の揺籠。それは最小の、完成された宇宙なのだから。

 ――水底に沈む揺籠は、願いだけを孕んでいる。

フラーテルの追憶

 ――私の神様、愛しい兄。それだけが、私を満たす全て。

 生まれてきてくれてありがとう。そう伝えればとても嬉しそうに微笑む妹が何より愛おしかった。ただ一人の半身、私の美寿知。お前が居てくれたから私は、あの冬の日に自らの命を絶つ決断をせずに生きてこれた。お前と一緒ならどんな苦痛にも耐えることができたのだ。
 それでも成長するに従い思っていた、私にはお前の愛を一身に受ける資格はないのではないか。普通の兄妹のように別々に生きるべきではないか、と。
「兄さんには、私がずっとついてるわ」
 ああ、その言葉のなんと嬉しかったことだろう!非力さと愚かさから道を踏み外し自ら破滅せんとする私の罪すらお前は赦してくれた。あの時、かつてあれほど恐れていた運命の終焉でさえ穏やかに受け入れることができた。独りではないという絶対的安寧が私を包んだ。
 それでも世界は、私に罪の清算を求める。脅威が去った世で私は妹から隔離され、与えられた仕事をこなし続ける日々を送った。
 押し付けられた普通の人間としての暮らしは決して悪くはなかった。だが喪失感と焦燥は変わらずこの身を灼き、精神は少しずつ摩耗していった。生温い地獄にもはや耐えきれず、苦し紛れの戯れに窓の外に身を乗り出すと携帯が鳴った。長く、長くかかってこなかった妹の番号に慌てて飛びついた。
「これから、迎えに行きます」
 それは青天の霹靂だった。親交のあった影丸会長が私たち兄妹を海馬コーポレーションから引き取ってくれるという、電話越しに弾む声を呆然と聞いていた。
 今度こそ自由になった私には選択肢があった。妹と離れ独りで生きるか、それとも共に暮らすか、以前の葛藤など忘れ私は後者を選んだ。心の中で肥大化した子供の私が何よりも妹を求め、大人の私は従うより他になかったのだ。愛しい妹と再び一つになる罪深い夢想に、やっと心が満たされる。
 私は天使の羽を毟り、地上に縫い付けた、それが私の原罪。不完全な宇宙で、全ての愛、全ての祝福を奪い此処に生きてゆく。

 ――抱きしめた命に呪いをかける、兄の魂が永劫私のものであるようにと。

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